中央区・末廣神社

日本橋七福神の毘沙門天

日本橋には日本橋七福神があります。
日本橋七福神の一つが現在の中央区日本橋人形町にある末廣神社です。
江戸時代初期、吉原がこのあたりにあり、その当時は主神、産土神として、信仰されていました。

しかし明暦の大火で吉原が大火になり、吉原は移転します。
吉原が移転した後、その跡地である難波町、住吉町、高砂町、新泉町という四つの氏神として信仰されていました。
日本橋七福神として末廣神社は、毘沙門天です。

末廣神社の由緒

末廣神社はもともと、吉原にあった神社です。
この当時、主神、産土神として吉原の女性たちの祈りを聞いていたと言われています。
末廣神社に当時の女性たちは辛い思いを抱え、祈りをささげていたのでしょうか。

吉原で親しまれたこの末廣神社は、明暦の大火という大火事によって移転します。
吉原の大火にあうまでは、4つの街の氏神として親しまれていました。
このような偶然があり、現在の中央区に移転し、現在の末廣神社になったのです。

末廣神社という名の由来

末廣神社という名はどのようにしてつけられたのかというと、延宝3年社殿修復の際、年得た扇が見つかり、氏子たちが喜びその祝いとして末廣の二字を入れて末廣神社としたといいます。
由緒ある扇が見つかったことで、これにちなみ末廣神社となったという話が伝わっています。
400年前から信仰されているこの神社には様々な歴史があるのです。

空襲により焼失した末廣神社

末廣神社の氏子戸数は425という数を数え、浪花町、人形町1丁目から2丁目にわたっています。
毎月5月22日には例祭があります。

この末廣神社は昭和20年3月10日未明、空襲によって社殿と社務所を焼失します。
しかしその後、再建され現在の位置に鎮座されています。

毘沙門天とは

毘沙門天とは七難をさけて七福を与える北方の守護の神仏といわれます。
仏教、それを信じる人たちを護る四天王のひとりです。
憤怒の相、唐の武人装束で左手に宝塔、右手に金剛棒を持っています。
二対の邪気を踏みつけている姿に現されるように古くから武人たちの厚い信仰を受けていたものです。

毘沙門天のルーツはインドの前期ヴェーダ時代から古い神とされ、北の方角を護る神ヴィリシュラヴァナが毘沙門天とされています。
四天王として数えられるときは多聞天と呼ばれることも多いです。
ちなみに、毘沙門天の妻が吉祥天です。

インドには四方を護る神がいて、毘沙門天と持国天、広目天、増長天が四天王といわれています。
この四天王が仏教の世界に取り入れられて四天王と呼ばれるようになったのです。
強い武将が祈りをささげたといわれる七福神の毘沙門天が今中央区の末廣神社にいるというのはうれしい事です。