中央区・小網神社

強運厄除けの神様「小網神社」

観世音、そして弁財天が安置されている万福庵という庵、小網神社は武蔵国十島郡入江付近に存在していました。
恵心僧都の開基と呼ばれ、その年代は定かになっていませんが、恵心僧都の歴史を考えると、今から1000年もの昔にできた由緒ある神社と考える事ができます。

そんな小網神社の周辺で悪疫が流行したのは文正元年、庵の周辺で悪疫が流行し、周辺に暮らす人たち位は困り果てていました。
そんなとき、庵の開基、恵心僧都が当時の庵主出逢った方の夢枕に立ち、網師の翁を稲荷大神として崇めることで、村の悪疫はなくなるだろうというお告げをうけます。
そのお告げを受けて翁を稲荷大明神とたたえて、神社を創建し祈願し続けました。

間もなく悪疫は静まり、村人たちは大変喜んだと伝えられています。
この話を領主であった太田持資公が聞いて、折に触れ神社を訪れるようになります。
土地を寄付し、小綱山稲荷院方福寿寺と名付け、慶長年間になるとこの周辺地域が小綱町と名付けられました。
この周辺はこの神社を氏神として奉ったのです。

明治維新で社寺が分離

明治維新後は、神仏分離令によって社寺が分離し、小綱稲荷神社として村社に指定されます。
現在中央区に位置する社殿、新楽殿は大正時代、明治神宮造営の匠、内藤駒三郎大工一門の手で昭和のはじめに造営されたものです。
戦火を逃れ日本橋地区にあるこの小網神社は、日本橋地区唯一の木造檜造りの神社であり、その当時の建築様式を今に残しています。

昇り龍と降り龍

向拝に施されているこの小網神社の昇り龍と降り龍は見るものを圧倒する彫り物となっていて、強運厄除けの龍として親しまれ、多くの参詣者がこの龍をお参りしていきます。
戦後、宗教法人化し、小網神社という名前になり、社殿、新楽殿などについては中央区の文化財として大切にされているのです。

細かく彫刻された昇り龍と降り龍の彫刻は、その時代に作られたものと思えないほどに美しく、今も劣化することなく輝くように鎮座されています。
この龍の彫刻をみると、当時の大工さんたちが優れた技術を持った大工さんだったという事がわかります。
だからこそ、今にその名を残しているのでしょう。

強運厄除けの神

第二次世界大戦の際、戦地に行くことになった氏子のために、出征奉告祭に参列、小網神社の御守を受けた兵士は、なんと全員帰還されたといいます。
また、東京の下町一帯に未曽有の被害をもたらしたあの東京大空襲の際、ほかの神社などが焼失する中、この小網神社は、奇跡的に戦災を逃れて今に至るのです。

関東大震災においても東海はしたのですが、稲荷大神、弁財天等の御神体を当時の宮司が必死に抱え持ち出し、近くの新大橋に避難、そこに近くの人々が避難してきましたが、大橋が落ちる事もなく、人々の多くが助かったといいます。
厄災を逃れる神社、不幸の中にも強運を持っている神社として小網神社はこの事からも有名になったのです。