中央区・松島神社

松島町と呼ばれた町にあった松島神社

創建はわからないのですが、人の話を聞くと鎌倉時代、1321年以前、柴田家の祖先が下総の国から移り住み、邸内に諸神を勧請したといいます。
天正13年に邸宅を公開しました。

島内は松樹鬱蒼としていたことで当時、松島稲荷大明神とされました。
江戸時代、この周辺は松島町と呼ばれ明治7年、松島稲荷神社といて村社に列格しました。

鎌倉時代以前に創建されたと考えられる松島神社

社記類が大震災によってすべて灰となってしまったので、創立年度などはわかっていません。
しかし鎌倉時代以前だとされています。

このあたりは当時入り海であり、そこに小島がありました。
その小島に柴田家の祖先が下総の国からこの小島に移り住みました。
邸内に初神を勧請、この小島を通り過ぎる船が安全に航海できるように、毎夜火をたき、船人が安全に航海できるようにしていたといいます。

1324年、夜、三男の柴田権太に百難救助すべしと神示があり、この先、霊験自在円満の感応があり、その奇得を近隣住民の人たちの信仰の源となり、これによって正一位稲荷大明神の位記を奉られました。
天正13年、2月、その地域の住民の希望に従って、邸宅を公開、参詣を自由に行うことができるようになりました。
これは当時非常に珍しいことで、人々は松島稲荷大明神と唱えて権太の木像を権太大明神として厚く信仰したのです。

松島神社の当時の様子

明暦の大火によって焼失してしまったことで当時の物はなくなってしまったのですが、その当時はどのような町の様子だったのかというと、人形細工の職人がいて、呉服商人、さらに歌舞伎があり、芸妓もいました。
この松島神社は、芸能関係や庶民の参拝が非常に盛んでした。

その名残りとなっているのが11月の酉の市です。
11月のこの酉の市は、当時の松島神社周辺をしのばせる光景かと思うと、当時から続くこうした行事に大きな意味があると感じます。

周辺を埋め立て大名屋敷の造営を行った

松島村となってから周辺を埋め立て、大名屋敷を造営するために地方から上京した大工や左官、家具職人などがこのあたりに暮らし、この松島神社で水子の霊を蛭子社に合祀、慰霊のため布きれや土、また木片などをもって乳児の形を作りお供えしました。

こうした人形のようなものを作り供養をしていたのです。
当時は今と違い、生まれた子供がすべて健康に育つという環境ではなかったので、病気などによって命を落とす子も多かったのでしょう。
栄養状態も悪かったので、おなかに命を宿してもしっかりと生むことができなかった人も多かったのです。
当時この地から多くの人形師が誕生したことで、人形の街のお稲荷さん、人形町のおとりさまとして崇敬する方もいます。