中央区・銀杏八幡宮

戦勝祈願を行う銀杏八幡宮

銀杏八幡宮の創建年代は不明です。
ただ源頼義、義家は奥州征伐に向かうとき、この銀杏八幡宮の小高い地の銀杏の枝をさし、これを戦勝祈願し、その帰途、銀杏八幡宮を創建したと伝えられています。

きっとこの銀杏の枝をさしていったことでいい戦ができ、それを喜び、八幡宮を創建されたのでしょう。
江戸時代、福井藩松平家屋敷地となってから、松平家の邸内の中の社となったのですが、享保10年、公収となり福井町の産土神となったのです。

銀杏八幡宮の由来

源頼義、義家公が朝廷の名によって奥州の安部貞任と宗任を平定するため、奥州街道を走っていました。
このあたりは当時、小高い丘であり隅田川の流れを一望できる絶景地でした。
ここで小休止するため、陣をとり、川上から何か流れてきたのでそれを拾いあげてみると銀杏の枝だったといいます。

その枝をこの丘の上に差し、はるか遠くの都の氏神様に拝み、朝敵退治ができたときには枝葉栄ふべしと祈願し旅立ちました。
安部一族を平定し、この地にもどった源兄弟は時丘の上にさした銀杏の枝が成長していました。

頼家は御神のご加護を感謝し、そこに大刀一振りを捧げ、八幡宮を作ったと伝えられています。
この時成長していた銀杏の枝は後に大きな大樹となり、隅田川を上がり下りする船、街道を行きかう人々が目標とすることができたといいます。
徳川家康公が江戸に入府、元和4年、福井藩松平家の屋敷内にあった銀杏八幡宮は、のちに公収となったことで屋敷跡地は町屋となり、地域の産土神として崇敬されるようになったのです。

大樹の行方

大銀杏となった大樹は、延享2年、9月の台風によって中ほどより折れてしまうという被害にあいました。
しかし高さ6mを残しその後も成長していたのですが、文化3年になって江戸大火にあい、焼失してしまったのです。

大樹はこのあたりの方々の信仰の源ともなっていたので、当時、この大樹がなくなってしまったことで近隣の方々はとても悲しまれたそうです。
しかし、信仰は途切れることなく今につながっているのです。

街道を行きかう人たちは大樹を目印に歩いた

当時は今のように道しるべ等も少なく、交通の便も悪い状態だったので、黄色の葉がつく銀杏の大きな木は、当時の方々にとって大きな道しるべになったに違いありません。
戦いを祈願し、大樹となったこの銀杏の木をきっかけに、銀杏八幡宮ができたのです。

当時隅田川を下る船人たちは、この大樹をみながら季節を感じていたことでしょう。
銀杏八幡宮の周りには美しい緑があり、お守りには銀杏の葉が利用されています。
銀杏の葉のお守りは非常に珍しいので、ここでお守りを購入されていく方が多いのです。