中央区・福徳神社

稲荷の一理塚と呼ばれた稲荷神社

福徳神社は東京都中央区日本橋にある神社です。
美しい社殿には今も多くの人たちがおとずれる場所となっており、深く親しまれています。
創祀された時期などは確かな時代がわかっていないのですが、神社に伝わる略記をみると貞観年間には鎮座していたとされています。
当時、武蔵野の村落、福徳村の稲荷神社として祀られていたため、その地名が社号となったのです。

当時のその地域、社地は非常に広く、社殿も優雅に鎮座していました。
杜の奥深く、親臨と田畑に囲まれていました。
農家が散在する片田舎というイメージのところにあった、民の人たちから厚く信仰を受ける稲荷神社であり、その森を神社の森、稲荷の森と呼び、その森に建てられていた里程標は、親しみを込めて稲荷の一里塚と呼ばれていたのです。

後、大地震に会って一里塚は崩壊するのですが、当時、人々は産卵した碑石の割れた破片を集めて保存していたと考えられます。
それほどまでに、この稲荷神社は周辺の方々より厚く信仰され、親しまれていたという事です。
壊れてしまったものでも、こうして大切に集め守ろうとした当時の民の気持ちはこの稲荷が非常に大切にされていたことを物語っています。

源義家朝巨が深く崇敬していた

この福徳神社には武将たちの信仰が厚く、源義家巨がこの福徳神社を深く崇敬していたとされます。
武将たちにも厚く信仰されていたという事を聞くと、この神社が霊験あらたかという事がわかります。

江戸幕府以前は、太田道灌公が合祀しされていて、兜、矢などが奉納されていたという事が伝えられています。
また徳川家康公は天正18年、8月二参詣し、その後も複数回参詣されていたと伝えられています。
徳川家康公も参詣していたという事もこの神社が優れた功徳を持っていた証拠でしょう。

芽吹神社と呼ばれていた福徳神社

この福徳神社は、以前芽吹神社と呼ばれていました。
二代将軍、秀忠公は慶長19年、この神社へ参拝し、福徳とはまことにめでたい神号と称賛され、喜ばれました。
皮つきの鳥居、春のわかめの萌え出た姿を見て、この神社は福徳神社と呼ばれていたのです。

芽吹神社とは非常にめでたく、新しく芽が出るということは新しい命が芽吹くという事につながります。
当時、命を繋ぐという事がなかなか難しかった時代、芽吹くという事、福徳という言葉はとてもめでたい言葉でした。

元和5年、御城内の弁財天を合祀する際、将軍が自ら神霊を収め、大和錦の幌を奉納され、社地縄張を330坪と定めたことで、さらに福徳神社は格の高い神社となったのです。
主祭神はウカノミタマノミコト、相殿はアメノホヒノミコト、オオムナチノミコト、スクナヒコノミコト、コトシロヌシノミコト、ミホツヒメノミコトです。